× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 |
![]() |
アバクロ 「和尚さん」と、子供が声をかけて絡みついてくる。岩手県陸前高田市の東端に突き出した広田半島にあり、約700年の歴史を紡いできた寺。その21代目の住職は福々しい笑顔と穏やかな人柄で、大震災で傷ついた子供たちの心のよりどころとなっている。■3日間孤立 多い日で70人近くいた避難者も、無償で宿泊施設を提供する内陸部に移住する人が増えてきた。ただ、「最後の一人までお世話をしたい。仮設住宅に移る人はここにある寝具や生活用品を遠慮なく持っていってほしい」と温かいまなざしを送る。 約200軒の民家が密集する漁師町。寺は高さ約6メートルの防潮堤から300メートルほど離れた高台にあり、市が指定する避難所になっている。地震直後に津波警報が出されると、低地の住民が続々と駆け込んできた。 「バキバキッ」という不気味な音が響くのと同時に、津波に押し流された民家で寺の山門がふさがれ、境内に濁流が流れ込んできた。「語弊があるかもしれないが、映画を見ているようだった」 本堂から茫然(ぼうぜん)と眺めていると、濁流は本堂の床下にも押し寄せてくる。「ここにいては危ない」と思い、裏手の高台にある墓地に手を取り合って上った。水が引いた午後4時ごろに本堂に戻り、無事を確認した。 「あと10センチで床上まで浸かっていた。そうすれば、避難所として使いものにならなかった」 半島の幅の狭い山道は随所で寸断され、3日間孤立した。「まず食事に困った。寺にあった食料をお菓子まですべて出し、何とかしのいだ。自衛隊が来るまでの3日間は1人おにぎり1個だった」と振り返る。■秋には初孫 幸運も重なった。子供たちの座禅研修用に50人分の寝具を常備していた。寺だから部屋は畳敷き。厨房部分を含めて140畳の広さがあった。ある人には「ほかと比べると別天地」と言われた。 被災を免れた高台の檀家からは、米や野菜が続々と運ばれてきた。プロパンガスを使い、大釜で十分な炊き出しもできるようになった。太いろうそくが豊富にあり、夜は停電中の本堂内を赤々と灯している。 水をかぶって使えなくなった発電機は、避難者の中にいた電気店主が直した。それで井戸水をくみ上げ、余力分は夜間の数時間に限って電灯用に回す。夕食は午後5時、消灯は8時。「貴重な電力を無駄にしない」 寺の名前にも救われた。奈良県にある慈恩寺という地名の住人から「他人事とは思えない」と、生活用品が大量に送られてきた。 避難所運営は住民同士で担い、「私は話を聞いてあげ、お手伝いをするだけ」。長女が9月に初孫を出産する予定と知り、寺に身を寄せるおばあちゃんが「地域の宝だ。一緒に育てるべ」と喜んでくれた。 「電力も機械もない明治の大津波では、網で遺体をすくい上げたという言い伝えがある。人を救うのは人にしかできない。次の世代のために必ず復興する」 岩手県災害対策本部によると、県内では約370カ所で、4万8000人以上が避難所生活を送っている。このうち、死者、行方不明者がいずれも1000人を超える陸前高田市の避難所は約90カ所、避難者数は1万6000人以上に上り、県全体の3分の1を占める。 大震災から1カ月が経過した避難所では、おかずとなる副食が不足するなど、支援物資に格差があることに不満が出ている。ストレスや健康不安を訴える声も日に日に高まっている。 市が第1次で建設した36戸の仮設住宅には1160組が応募し、32倍の高倍率となった。今月10日からは順次、入居が始まっている。市は夏をめどに4千戸を建設する予定。 戸羽太市長は「仮設住宅の建設が急務だ。関係機関に強く要請していきたい。復興ビジョンは必要だが、今はその段階にはない。まず、安心して暮らせる住宅を確保することが先決だ」としている。 1次補正で夏の電力不足対策 自家発導入企業に補助金交付
PR |
![]() |
![]() |
|
![]() |
トラックバックURL
|
![]() |